一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華

原文 書き下し文
一切善悪凡夫人 (一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願 (如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者 (仏は広大勝解の者と言い)
是人名分陀利華 (是の人を分陀利華と名く)

目次

  1. これは誰のこと?
  2. 如来の弘誓願とは?
  3. 聞信とは?
  4. 聴聞とは?
  5. 阿弥陀仏に救われると?
  6. お釈迦さまは?
  7. なぜ仏方からほめられるの?

これは誰のこと?

これは、
一切善悪の凡夫人、
 如来の弘誓願を聞信すれば、
 仏は広大勝解の者と言い、
 是の人を分陀利華と名く

と読みます。

一切善悪の凡夫人」の
一切」はすべて、ということです。
凡夫」とは、仏教で人間のことですから、
善悪の凡夫人」とは、善悪の人間ということです。

善人も悪人も、すべての人のことを
一切善悪の凡夫人」と親鸞聖人はおっしゃっています。

ですから僧侶も在家の人も、男も女も、一切の人、この中に入らない人はありません。

すべての人が「如来の弘誓願を聞信すれば」と言われています。

如来の弘誓願とは?

如来の弘誓願」の「如来」とは、仏様のことです。
次に「弘誓願」とありますから、
如来の弘誓願」は、釈迦如来や薬師如来大日如来などではなく、「阿弥陀如来の本願」です。

では「弘誓」とはどういうことかといいますと、ひろい誓いということです。

蓮如上人は、

 それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしく皆十方・三世の諸仏の悲願にもれて、捨てはてられたる我等如きの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して(蓮如上人『御文章』)

といわれています。

十方・三世の諸仏」とは大宇宙のすべての仏さまです。
その「悲願にもれた」ということは、大宇宙のすべての仏が、みな慈悲の心を持っておられますから、一度は、なんとか私たちを助けようとしてくだされたが、助けられずに、私たちを捨てたということです。

私たちは、薬師如来や大日如来や奈良の大仏の毘盧遮那如来などから、かわいそうだけれども、とても助けることができない、と捨てられたということです。

すべての人は、大宇宙の諸仏から見放されたのですが、そんな私たちを、諸仏に捨てられた者たちなら、なおのこと見捨てておけないと立ち上がってくださり、「我一人助けん」と約束せられたのが、本師本仏の阿弥陀仏の本願です。
その救済の相手は、「大宇宙のすべての人」ですから、大変ひろい誓いです。
だから親鸞聖人は、「弘誓願」といわれているのです。

聞信とは?

その阿弥陀仏の本願を聞信すればの
聞信」とは、聞即信のことです。

聞即信」の「」は信心獲得の信、「」はその時ですから、聞いたその時、信心獲得します。
ですから聞く一つで、絶対の幸福に救われるのです。

では聞くとはどんなことかといいますと、親鸞聖人は、こう教えられています。

」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
これを「」と曰うなり。(親鸞聖人『教行信証』)

仏願」は阿弥陀仏の本願ですから、
仏願の生起」とは、阿弥陀仏の本願は、どんな者のために建てられたのか、ということです。

本末」の「」は、阿弥陀仏が法蔵菩薩となりさがられて、五劫兆載永劫の長い間、私たちを助ける働きのある御名号をつくられたご苦労です。

その結果、すべての人を絶対の幸福にする力のある働きのある、南無阿弥陀仏を完成されたのが「」です。

ですから「本末」とは、御名号ができるまでの、本から末までです。

このように「仏願の生起・本末」とは、阿弥陀仏は、どんな者のために御名号を作られたのか、その顛末の本から末までということです。

その「仏願の生起・本末」を聞くということです。

どこまで聞くのかというと、「疑心有ること無し」までです。

一念で疑い晴れますので、ここが決勝点です。
これを「」といいます。

そこまで聞かなければなりませんから、仏法は聴聞に極まるの一本道です。

聴聞とは?

聴聞」の「」は何を聴くのかというと、やはり「仏願の生起・本末」ですが、聴の間は、疑いは晴れません。

阿弥陀仏の本願を聴くと、必ず疑いが出てきます。
疑いがあってこそ、その疑いが「晴れた」ということがあります。
阿弥陀仏の本願を聴かなければ、生起・本末に対する疑いが出ませんから、「」からしか「」に入れません。

聴聞」の「」は
仏願の生起・本末」に疑い晴れたときです。

十方三世の諸仏の悲願にもれた極悪人のために建てられた、阿弥陀仏の本願に疑い晴れますから、「十方三世の諸仏に捨てられた者が私でありました」とツユチリの疑いもなくハッキリ知らされます。

その一念で、阿弥陀仏に救われますから、「聞即信の一念」といわれます。

聞信」は、そのときをいいますから、
」も「」も「阿弥陀仏に救われたこと」です。

ですから「阿弥陀仏の弘誓願を聞信すれば」とは、阿弥陀仏の本願に救われたならば、ということです。

では、阿弥陀如来に救われたならばどうなるのでしょうか。

阿弥陀仏に救われると?

次に
仏は広大勝解者とのたまい、
 この人を分陀利華と名く
」と言われています。

阿弥陀仏に救われたならば、その救われた人を、仏様は「広大勝解者」といわれると親鸞聖人はおっしゃっています。

広大勝解者」とは大学者のことです。

勝解者」なら、すぐれた色々のことを解っている者で、学者のことですが、「広大」とありますので大学者です。

仏様が「そなたは大学者だな、大学者になったな」とほめられます。

そして「この人を分陀利華と名く」の
この人」とは、阿弥陀仏に救われた人です。
阿弥陀仏の本願を聞信した人を、仏様が、分陀利華とおっしゃいます。

分陀利華」はインドの昔の言葉ですが、意味は白蓮華ということで、めったに咲かない非常に珍しい花のことです。

仏様方が、「あなたは白蓮華のような、めったにない尊い人だ」とほめたたえられると親鸞聖人は言われています。

お釈迦さまは?

お釈迦さまは、阿弥陀仏に救われた人を、

我が善き親友なり(大無量寿経

とおっしゃっています。

地球上にただ一人現れた仏であるお釈迦さまから、私の親しき友達だと握手を求められたら、大変な元気と勇気が出てきます。

お釈迦さまのみならず、大宇宙の諸仏方から
広大勝解者じゃ、分陀利華じゃ、あなたはめったにいない人だ、めったにみられない人だ
とほめちぎられます。

自惚れ強い私たちは、人からほめられてさえも、とても嬉しく思います。

空言たわごと、まことの一つもない、その時々にいい加減なことばかり言っている、人間にほめられてさえも嬉しくて元気が出てくるのに、

阿弥陀仏に救われたならば、絶対にうそをつかれない仏様方が、最高級のほめ言葉でほめて下されますから、ものすごい元気と勇気を頂いて、生き抜くことができる大変な幸せの身になれるのです。

なぜ仏方からほめられるの?

では、なぜお釈迦さまや諸仏方は、阿弥陀仏に救われた人をこのようにほめられるのでしょうか。

それは、地球のお釈迦さまをはじめ、大宇宙のすべての仏方の教えられていることは、
三世因果の道理を徹底し、後生の一大事を知らせて、その後生の一大事助けることのできる仏は、本師本仏の阿弥陀仏より他にないのだから、早く阿弥陀仏に救われなさい、ということ一つです。

これが釈迦の任務であり、十方諸仏のただ一つのつとめですから、その通りに阿弥陀仏に救われた人を、仏方は「分陀利華だ、広大勝解者だ」と喜ばれるのです。

そして阿弥陀仏は、釈迦や諸仏方の先生ですから
私の先生の阿弥陀仏に救われた人は、みんな友達だ」と思われて、
我が親友だ、親しい友達だ」とも言われ、そんな幸せ者はめったにないぞと、「分陀利華じゃ、広大勝解者じゃ」とほめられるのです。

そして親鸞聖人は、
これは親鸞だけのことではありませんよ、
 一切善悪の凡夫人が、仏にほめられる身になれるのですよ

と言われています。

ではどうしたらそんな幸せな身になれるのでしょうか。

それは、阿弥陀如来の弘誓願を聞信すればなれますよ、だから阿弥陀仏の本願を聞きなさい、と教えられています。

そして早く阿弥陀仏に救われて、仏方からほめられる身になりなさいよと、親鸞聖人は朝晩、正信偈に教えられているのです。

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